「頑張りたいのに動けない」が続いていた
最近、SEO記事を書くのがつらい。
以前は、朝起きたら自然にパソコンを開いていた。
記事を書き、構成を考え、検索順位を確認する。
アクセスが少し伸びるだけでも嬉しかった。
でも最近は違う。
起きても手が動かない。
記事を書こうとしても、画面を開いたまま止まってしまう。
「やらなきゃ」とは思っている。
収益も必要だ。
副業を育てたい気持ちもある。
それなのに、行動に変わらない。
最初は、「疲れているのかな」と思っていた。
実際、今は体力仕事のアルバイトもしている。
長時間働いた翌日は、かなり疲労が残る。
以前、無理をしすぎて心を壊した経験もあるので、「また無理をしてはいけない」という感覚も強い。
だから、自分では「回復不足」が原因だと思っていた。
でも、少しずつ違和感が出てきた。
動けないわけではない
よく観察すると、全部の行動が止まっているわけではなかった。
ゲームはできる。
動画も見られる。
海を見に行くこともできる。
アルバイトにも行ける。
つまり、「行動能力そのもの」が消えているわけではない。
止まっていたのは、ある種類の作業だけだった。
SEO。
SNS発信。
マーケティング。
ペルソナ設計。
つまり、「人間を想像し続ける仕事」だけが止まっていた。
ここに気づいた時、自分の中でかなり大きな発見があった。
自分は、やる気がなくなったのではなく、“人間への関心”そのものが消耗していたのかもしれない、と。
SEOは「人への興味」が必要な仕事
SEOは、テクニックの仕事に見える。
キーワード選定。
見出し設計。
内部リンク。
検索順位。
でも、本質はかなり人間的だ。
検索する人がいる。
悩んでいる人がいる。
迷っている人がいる。
その人たちを想像しながら、「どういう言葉なら届くか」を考え続ける。
以前の自分は、それが自然にできていた。
でも今は、その工程に入ろうとすると、心が重くなる。
「この人は何を求めているんだろう」
「どうすれば安心するんだろう」
そう考え続けること自体が、苦しい。
アクセスが伸びない状態が続くと、さらにきつくなる。
頑張って書いても読まれない。
収益にもつながらない。
すると、だんだん「誰かのために考える」という行為が空虚になっていく。
そしてSEOは、“人のための文章”ではなく、“アルゴリズムへの作業”に変わっていく。
ここまで来ると、急に動けなくなる。
自分は「人間嫌い」なのかもしれない
最近、自分は人間嫌いなんじゃないか、と感じることが増えた。
もちろん、誰とも関わりたくないわけではない。
接客もできる。
普通に会話もする。
仕事では笑顔も作れる。
でも、「人の感情を受け取り続けること」に疲れてしまう。
昔から、人の空気に敏感だった。
相手の機嫌。
場の空気。
誰かの無理。
そういうものを、言葉より先に感じ取ってしまう。
最近ではHSPという言葉も知られるようになったけれど、自分にもそういう傾向はあると思う。
ただ、繊細さというのは、悪いことばかりではない。
他の人が気づかない違和感に気づけたり、小さな変化を感じ取れたりする。
Web制作でも、その感覚が役立つことは多かった。
でも同時に、人の感情を受け取りすぎる。
SNSを見ても疲れる。
検索ニーズを考えても疲れる。
人の欲望や不安を追い続けることに、神経が削られていく。
その状態が長く続いた結果、「もう人間を見たくない」という感覚に近づいていったのかもしれない。
AIを使うと、少し呼吸が楽になる
そんな中で、最近かなり助けられているのがAIだ。
今までは、全部を自分一人で考えようとしていた。
構成を考える。
文章を書く。
読者心理を想像する。
でも今は、まずAIに叩き台を作ってもらうことが増えた。
自分は、その中から「どれを採用するか」を決める。
すると、不思議なくらい楽になる。
ゼロから感情を絞り出さなくていい。
無理に“読者に共感し続けるモード”に入らなくていい。
これは怠けではなく、自分を壊さないための工夫なんだと思う。
昔の自分なら、「全部自分でやらなきゃ意味がない」と思っていた。
でも今は違う。
自分の神経を守りながら続ける方が、ずっと大事だと思うようになった。
「普通に働けない自分」を責め続けていた
以前の自分は、「もっと普通に働けるようにならなきゃ」と思っていた。
周りと同じように働けない。
長時間働き続けると壊れる。
人と関わり続けると消耗する。
そんな自分を、ずっと責めていた。
でも49歳になって、少し考え方が変わってきた。
大事なのは、「普通の働き方」を目指すことではなく、「壊れずに続けられる構造」を作ることなんじゃないか、と。
繊細さは、生きづらさでもある。
でも同時に、人が感じ取れないものを感じられる力でもある。
だから最近は、その感覚を無理に消そうとするのではなく、「そのままでも生きられる形」を探したいと思っている。
人間嫌いという言葉は、少し強すぎるのかもしれない。
本当は、人に無関心なのではない。
むしろ、人を感じすぎるからこそ、疲れて距離を取りたくなっているだけなのだと思う。