「叱られるうちが花」の本当の意味|誰も注意しなくなった職場で起きること

労働と現実

できる人が動かず、できない人が責められた

アルバイト先では、毎週決まった曜日に、ある機械の清掃作業がある。

少し特殊な手順が必要なため、その清掃ができるのは、職場の中でも私を含めて二人しかいない。

その日、私は締め作業に時間のかかる持ち場を担当していた。通常の仕事を終わらせるだけでも時間が必要で、とても機械の清掃まで手が回る状況ではなかった。

もう一人の清掃ができる人は、比較的早く締め作業を終えられる持ち場にいた。時間にも余裕があり、本人がそのまま清掃を始めれば、何の問題もなく終わるはずだった。

ところが、その人は動かなかった。

代わりに、清掃方法を知らない別のスタッフに向かって、

「ずっと放置されているけれど、それでいいと思っているのか」

「自分にできないなら、できる人に頼むのが筋ではないか」

と説教を始めた。

横で聞いていて、私はかなり嫌な気持ちになった。

清掃できない人が作業を放置していたのではない。清掃できる人が目の前にいて、自分では動かず、清掃できない人に責任を負わせていたからだ。

正しい言葉が、正しい行動とは限らない

「できないなら誰かに頼むべきだ」

言葉だけを切り取れば、間違ってはいない。

仕事では、自分にできないことを放置せず、周囲に助けを求めることも大切だ。

しかし、その言葉を発している本人が清掃方法を知っており、時間にも余裕があったとしたら、話は変わってくる。

本当に仕事を終わらせたいのであれば、説教する時間で自分が清掃を始めればよい。

それをせず、相手に「頼むのが筋だ」と言うのは、仕事を前へ進めるためではなく、自分がやりたくない仕事を誰かへ引き受けさせるために、正論を使っているように見えた。

職場では、ときどき正しいことを言う人より、黙って必要なことをする人の方が信頼される。

何を言ったかではなく、誰が実際に動いたか。

その違いは、忙しい現場ほどはっきり表れる。

責任感のある人に仕事が集まる

結局、私は自分の締め作業を急いで終わらせ、機械の清掃も担当することになった。

もう一人の清掃できる人は、自分の持ち場が終わると、他のスタッフの作業が残っているにもかかわらず、先に帰ってしまった。

結果だけを見ると、その人は自分の担当作業を終え、予定どおり帰宅できた。

一方で、私は時間のかかる持ち場を終えた後、さらに清掃作業まで引き受けた。

こうした職場で起きるのは、単なる作業の偏りではない。

協力しない人ほど仕事が減り、責任感のある人ほど仕事が増えるという逆転である。

誰かがやらなければ店は閉められない。清掃も翌日に持ち越せない。だから、最後は放置できない人が引き受ける。

そして一度その形が成立すると、「あの人はやらないから、できる人がやる」という運用が当たり前になっていく。

真面目な人が損をする職場は、真面目な人の性格に甘えて成り立っている。

「あの人はああいう人だから」という諦め

その人は長く働いているベテランで、周囲からは腫れ物のように扱われている。

何か問題が起きても、

「あの人はああいう人だから」

「言っても変わらないから」

という空気で終わる。

社員も本人を強く注意することを諦めており、問題が起きた後に、被害を受けた側へ「ごめんね」と謝ってフォローすることが多い。

これは一見すると、職場の衝突を避ける現実的な対応にも見える。

しかし、本人へ何も言わず、周囲だけに我慢を求めている限り、問題は解決していない。

問題を起こした人は変わらず、負担を受ける人だけが入れ替わる。

「あの人はああいう人だから」という言葉は、その人を理解して受け入れているように聞こえるが、実際には改善を諦めた宣言でもある。

そしてその諦めの代償を払うのは、本人ではなく、周りで働く人たちだ。

叱られなくなったことは、認められたことではない

今回の出来事を見て、「叱られるうちが花」という言葉を思い出した。

若い頃は、注意されたり、仕事のやり方を否定されたりすると、腹が立つこともある。

自分なりにやっているのに、なぜ細かく言われなければならないのかと思うこともある。

けれど、注意してくれる人がいるということは、まだ自分が変わる可能性を信じてもらえているということでもある。

本当に周囲から見放されると、誰も何も言わなくなる。

注意されないから、自分のやり方が認められたわけではない。

何を言っても変わらない。関わるだけ疲れる。だから距離を置こう。

そう思われた結果、静かになっただけかもしれない。

叱られなくなることは、自由になることではなく、期待されなくなることでもある。

他人を変える責任まで背負わなくていい

私は、その人に直接意見を伝えなかった。

以前の私なら、理不尽なことが起きている以上、きちんと話し合うべきだと考えたかもしれない。

けれど今は、他人の人格や働き方を改善する責任まで、自分が背負う必要はないと思っている。

長く働き、周囲から何度も同じように見られてきた人を、私の一言で変えられるとは思わない。

下手に関われば、相手が変わるより先に、こちらが消耗する。

ただし、同じことが繰り返され、自分の仕事として恒常的に押しつけられるのであれば、それは個人同士の問題ではなく、職場の役割分担の問題になる。

そのときは、本人の性格を批判するのではなく、

「清掃できる人を該当する持ち場へ配置してほしい」

「清掃担当を事前に決めてほしい」

と、仕組みの問題として伝える必要がある。

他人の人生を変えることはできなくても、自分へ不当に流れてくる仕事を当然のことにしない線引きはできる。

叱られるうちが花。

その言葉は、叱られる側だけに向けられたものではないのかもしれない。

誰も注意しなくなった職場の中で、黙って負担を引き受ける人が増えていく光景を見て、そんなことを考えた。

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