前日の仕事で、かなり重い荷物を運んだ。
暑さのなかで身体を使い続け、帰宅した頃には、もう何かを考える余裕もほとんど残っていなかった。夜は比較的早い時間に眠り、翌朝まで8時間以上は寝ている。
これだけ眠れば、ある程度は回復しているだろうと思っていた。
ところが朝になっても、身体のあちこちが痛かった。筋肉痛だけではなく、全身に重いものが乗っているような疲労感が残っていた。
パソコンを開いても、仕事を始める気になれない。やるべきことがないわけではない。むしろ、進めたいことはたくさんある。それなのに、考えることも、手を動かすこともできなかった。
そんな日は、「時間があるのに何もしていない」と、自分を責めそうになる。
けれど、この日は少し違う見方ができた。
睡眠時間と回復は、同じではない
8時間眠ったのだから元気になっているはずだ。
頭では、そう考えてしまう。
しかし、睡眠時間が長かったからといって、身体の修復がすべて終わるわけではない。強い肉体労働をした翌日には、筋肉や関節だけでなく、神経や集中力にも疲れが残る。
眠ることは回復の条件ではあるけれど、眠った瞬間に疲労が消えるわけではない。
特に、普段とは違う重さの荷物を持った日や、暑い場所で長時間動いた日は、翌日まで影響が残る。身体は寝ている間も、傷んだ部分を修復し、失ったエネルギーを戻そうとしている。
朝起きても動けなかったのは、回復に失敗したからではない。
まだ回復の途中だったのだと思う。
何もできないのではなく、回復に力を使っている
疲労が強い日に困るのは、身体が動かないことだけではない。
考える力も落ちる。
文章を書く、判断する、予定を立てる、複数のことを比べる。普段なら難しくないことでも、その日はひどく重く感じる。
以前の私は、そういう状態になると「集中力がない」「意志が弱い」と考えていた。
でも実際には、使えるエネルギーの多くが身体の回復へ回っているのかもしれない。
財布の中に千円しかないのに、五千円分の買い物をしようとしても無理がある。それと同じように、身体に残っている力が少ない日に、普段と同じ成果を求めれば苦しくなる。
何もしていないように見えても、身体の内側では多くの処理が進んでいる。
そう考えると、動けない自分に対する見方が少し変わった。
体力仕事と頭脳労働は、別々ではなかった
私は普段、身体を使う仕事だけでなく、パソコンに向かって考える仕事もしている。
以前は、肉体労働で疲れていても、座って行う仕事ならできるのではないかと思っていた。
身体と頭を、別々のものとして考えていたからだ。
しかし、強い疲労がある日は、座っていても考えられない。
パソコンの前に座ることはできても、文章が出てこない。判断が遅くなり、何を優先すればよいかも分からなくなる。
肉体労働で使う力と、考える仕事で使う力は、完全に別の財布に入っているわけではないらしい。
身体が疲れれば、頭も鈍る。
頭が疲れれば、身体も重くなる。
どちらか片方だけを無視して働き続けることは難しい。
「今日は進まなかった」だけで一日を評価しない
疲れている日に一番つらいのは、作業が進まないこと以上に、その一日を「無駄だった」と判断してしまうことかもしれない。
目に見える成果がないと、不安になる。
収入につながる仕事が進まない。予定していた作業も終わらない。昨日より前へ進んだ感覚もない。
けれど、身体を壊さずに次の日へつなぐことも、生活を続けるために必要な行動だ。
疲れを無視して無理をすれば、その日だけ少し進んでも、数日間動けなくなることがある。過去に無理を重ね、長く休まざるを得なかった経験があるからこそ、それはよく分かる。
今日の成果が見えなくても、明日以降に動ける状態を取り戻しているなら、その時間は完全な空白ではない。
回復もまた、生活を維持するための仕事なのだと思う。
動けない日には、動けない日の役割がある
働く以上、疲れる日は避けられない。
生活のために、自分の体力以上の仕事を引き受けなければならない日もある。
だからこそ、その翌日まで毎回同じように動ける前提を置かないことが大切なのだと思う。
元気な日の自分を基準にして、疲れている日の自分を責めても、何もよくならない。
今日は身体が重い。
頭も回らない。
それなら、今日は回復に多くの力を使っている日なのだと考える。
何かを生み出す日だけが、意味のある一日ではない。
壊れずに暮らしを続けるために、立ち止まっているように見える日も必要だ。
寝ても疲れが取れない朝に、自分へ厳しい言葉を向けそうになったら、こう言い換えてみたい。
「何もできていない」のではない。
「身体が今、次に動くための準備をしている」のだと。