仕事へ出る前に取れたまとまった睡眠は、1時間だけだった。
目を閉じ、いったん眠り、すぐに起きた。眠ったという事実はあるのに、身体を十分に休ませた感覚はない。それでも身支度をして、飲食店の仕事へ向かった。
勤務中の細かな出来事までは記録していない。残っているのは、「ちょっときつかった」という感覚だった。強い言葉ではないが、寝不足の身体を一日動かした重さは、その短い言葉の中にある。

ところが、その日をあとで振り返ったとき、最初に出てきた言葉は「最悪だった」ではなかった。
「悪くない一日だった」
自分でも少し意外だった。
きつかったのに、満足していた
体調だけを採点すれば、低い点だったと思う。睡眠は足りず、仕事も楽ではなかった。仕事のあと、私はまとまって眠った。
一方で、自分で運営しているWebサイトの更新はかなり進んでいた。まだ完成ではないし、個々の作業を全部終えたわけでもない。それでも、更新前より確かに前へ進んだという手応えが残っていた。

きつかった。けれど、満足していた。
以前の私は、こういう二つの感覚が並ぶと、どちらかを正解にしようとしていた気がする。
「しんどかったのだから悪い日」
「作業が進んだから良い日」
一日の評価は一つに決めなければならないように考えていた。
でも今回は、どちらも本当だった。
「一日が仕事だけで終わらなかった」が大きかった
生活のための仕事をきちんと終えた。それだけでも、その日には意味がある。
ただ、私の場合、それだけで一日が閉じると、どこかに取り残された感じが残ることがある。
以前にも、アルバイトだけで一日が終わると、生活は守れても未来が昨日のままに見える、と書いた。
今回違ったのは、未来側の作業が「少し触れた」以上に進んだことだった。
誰かに決められた仕事ではなく、自分で選び、自分で育てているものが動いた。それによって、一日の全部を労働へ渡さずに済んだような感覚があった。
満足したのは、無理に耐えられたからではない。
自分の人生に属する時間と成果が、その日の中に残っていたからだと思う。
1時間睡眠を、成功体験にはしたくない
ここで間違えたくないのは、「1時間しか寝なくても働けたし、作業も進んだ」という結論にすることだ。
実際には、仕事はちょっときつかった。何事もなく終えられたとしても、判断や反応が普段と同じだったかは自分では分からない。
そして仕事のあとにまとまって眠った事実を見れば、身体は回復を後回しにしただけだった可能性もある。
以前、睡眠を削れば時計の上の時間は増えても、実際に使える時間まで増えるとは限らないと書いた。この考えは今も変わっていない。
今回の一日は、その反証ではない。
睡眠不足でもうまくいく方法を見つけたのではなく、条件の悪い一日の中にも満足できる要素があった、というだけだ。
この区別を曖昧にすると、「前もできたから」と同じ無理を繰り返してしまう。できたことと、続けてよいことは別にしておきたい。
作業が進むと、止めどきも見えにくくなる
Webサイトの更新が進んだのはうれしい。その一方で、進んでいるときほど、もう少しだけ続けたくなる。
一つ直す。結果を見る。次の課題が見つかる。その課題にも手を伸ばす。
AIを使ったWeb制作では、この連鎖が速い。疲れていても画面上では次々に結果が返ってくるため、自分の身体よりプロジェクトの勢いを優先しやすい。
この止めどきの難しさについては、以前にも書いた。
今回、何が満足感につながったのかは、まだきれいに説明できない。
更新量そのものかもしれない。思っていた以上に先へ進めたからかもしれない。あるいは、疲れていても自分で選んだことに触れられた、という感覚だったのかもしれない。
だから次は、睡眠を削らずに同じ満足を作れるかを試したい。
進捗を小さな単位で閉じ、十分な睡眠を取ったうえで仕事へ行く。それでも「悪くない」と思えるなら、続けられる形に少し近づける。
「悪くない」は、かなり正確な言葉だった
この日は、最高の一日ではない。
睡眠は明らかに足りなかったし、仕事はきつかった。もう一度同じ条件を作りたいとも思わない。
それでも、悪い一日だけでもなかった。

生活のために働いた。自分のWebサイトも進んだ。限界を感じた身体は、そのあと眠った。
全部を並べると、「よかった」よりも「悪くない」が一番近い。
一日を一つの点数にまとめなくてもいいのかもしれない。
身体はきつかった。気持ちは満たされた。代償はあった。進んだものもあった。
矛盾して見える感覚を、無理にどちらかへ寄せなくてもいい。そのまま言葉にしてみると、自分が本当に欲しかったものと、次は守るべきものが少し見えやすくなる。
この日は、睡眠不足でも頑張れた日ではない。
きつさを抱えながらも、自分の未来が確かに動いた日だった。だから私は、ようやく少し眠ったあとで、「悪くない」と思った。


