「何もできなかった日」になってしまった
今日は、かなり長く寝てしまった。
途中で何度も起きた。
少し行動して、また寝た。
夢を見て、また起きて、また寝た。
最終的に起きたのは16時だった。
しかも身体中が筋肉痛だった。
腰。
背中。
足。
時間が経つほど、筋肉痛の範囲が増えていく。
正直、「1日無駄にした感覚」が強かった。
今日は波も良くなかった。
サーフィンにも行けなかった。
プールへ行こうかとも思ったけれど、結局それも無理だった。
気づけば夕方。
「今日は何もできなかったな」
そんな気持ちが残った。
でも、あとから睡眠時間を見返して、少し感覚が変わった。
実は、前日は“2時間睡眠”だった
よく考えたら、昨日はほとんど寝ていなかった。
就寝は朝3時半。
起床は5時半。
睡眠時間は2時間。
その状態で、引越のアルバイトへ行っていた。
しかも、階段現場だった。
重い荷物を運ぶ。
階段を何度も往復する。
落とさないように気を張る。
周囲と呼吸を合わせる。
ただ重いものを持つだけではない。
- 足場を見る
- タイミングを合わせる
- 危険を避ける
- 相手の動きを読む
- ミスしないよう神経を張る
そんな状態が、何時間も続く。
今振り返ると、かなり無理をしていた。
でも、その時は普通に動けてしまう。
だから厄介だ。
本当に疲れている時、人はその場では気づけない
最近よく思う。
本当に危ない疲労って、その場では分からない。
むしろ、動けてしまう。
アドレナリンなのか、緊張感なのかは分からない。
でも、身体は動く。
だから、「まだ大丈夫」と思ってしまう。
ただ、その代償はあとから来る。
今回もそうだった。
今日の長時間睡眠って、単純に「眠かった」のとは少し違う気がする。
むしろ、
“身体と脳が、強制的に回収モードへ入った”
感覚に近かった。
しかも今回は、ただ長く寝たわけでもない。
何度も夢を見た。
途中で起きた。
少し動いて、また寝た。
つまり、
- 浅い睡眠
- 夢
- 覚醒
- 再睡眠
を繰り返していた。
これは、「ぐっすり休めた」というより、
“脳がずっと勤務終了処理をしていた”
感じに近い。
なぜか、飲食店ホールの夢を見る
面白かったのは、夢の内容だった。
引越で疲れていたはずなのに、夢に出てきたのは、なぜか飲食店ホールの仕事だった。
注文。
接客。
店内の空気。
場の流れ。
それが延々と夢に出てくる。
最初は少し不思議だった。
でも考えてみると、ホール業務って、身体より神経を使っている。
- 空気を読む
- 全体を見る
- タイミングを合わせる
- 場を止めない
ことをずっとやっている。
しかも「終われば終わり」ではなく、常に流れ続ける。
だから脳が閉じにくいのかもしれない。
さらに夢は、
- 飲食店ホール
- 引越
- 文化祭準備
へ変化していった。
最後に見たのは、「文化祭準備のために遅くまで学校へ残っている夢」だった。
「文化祭準備の夢」が妙にリアルだった
文化祭準備って、少し独特だ。
- まだ終わっていない
- 誰かが作業している
- 自分も帰れない
- 空気的に抜けにくい
- なんとなく残り続ける
そんな感じがある。
夢の中でも、自分はずっと学校に残っていた。
あれを思い返して、少し気づいた。
最近の自分って、ずっと「勤務終了」できていないのかもしれない。
労働。
生活。
将来。
制作。
疲労。
全部が「まだ途中」なのだ。
だから脳が、夢の中でもずっと何かを続けている。
「寝すぎた」のではなく、“前借りしていた回復を返済した”
今日、最初は「寝すぎた」「もったいない」と思っていた。
でも今は、少し違う。
むしろ、
“2時間睡眠で無理やり動いた代償を、身体が回収していた”
感じがある。
最近、自分はずっと、
- 未来側を進める
- 積み上げる
- 停滞したくない
ことを意識している。
だから、「1日消えた感覚」がかなり苦しい。
でも今回の長時間睡眠は、怠けではなかった。
身体側が、
「さすがに今日は返してもらう」
と言ってきた感じに近い。
それでも、「明日は良い日になるといいな」と思えた
不思議だったのは、ここまで疲れていても、
「明日は良い日になるといいな」
と思えていたことだ。
完全に落ちている時って、そもそも明日を想像できない。
でも今日は違った。
疲れていた。
筋肉痛だった。
寝すぎた感覚もあった。
それでも、
「また戻りたい」
感覚は残っていた。
最近、自分はずっと、
「壊れず続ける」
というテーマについて考えている。
若い頃みたいに、無理して走り続けることは難しくなってきた。
でもその代わり、
- 崩れそうになった時
- 回復が必要な時
- 神経が限界の時
を、以前より少しだけ認識できるようになってきた気もする。
今日みたいな日は、「何もできなかった日」に見える。
でも実際には、
“これ以上壊れないために必要だった日”
なのかもしれない。
だから今は、「1日無駄にした」と決めつけるより、
「身体が止めてくれた日」
として、少し静かに受け取ってみたいと思っている。