人間が嫌いだと思う日は、自分の傷の深さを思い出す日なのかもしれない

感情と言葉

今日は少し乱暴な言葉から始めたいと思う。

人間が嫌いだ。

基本的に自分のことしか考えていないから。

人間が嫌いだ。

基本的に理不尽だから。

人間が嫌いだ。

基本的に無意識で人を傷つけるから。

こんなことを書くと、「そんなことはない」「良い人もいる」と言われるかもしれない。

もちろん、それは分かっている。

実際に良い人もいる。

親切な人もいる。

助けてくれた人もいる。

でも、それでも今日はそう感じている。

そう思わずにはいられない日がある。

人は悪意より無意識の方が怖い

昔は、人を傷つける人には明確な悪意があると思っていた。

でも長く生きていると、そうではないことに気づく。

むしろ多くの場合、人は悪意がない。

悪意がないまま傷つける。

自分の都合を優先する。

自分の機嫌を優先する。

自分の正しさを優先する。

そして、その結果として誰かが傷つく。

本人は気づいていない。

だから謝ることもない。

反省することもない。

何もなかったように日常へ戻っていく。

その姿を何度も見てきた。

だから時々、人間そのものに疲れてしまう。

理不尽は説明なしにやってくる

人生を振り返ると、理不尽だった出来事はいくらでも思い出せる。

頑張ったから報われたわけではない。

誠実だったから大切にされたわけでもない。

我慢したから良い結果になったわけでもない。

むしろ逆だったことも多い。

真面目な人が損をする。

気を遣う人が疲弊する。

責任感のある人ほど仕事を抱え込む。

そんな場面を何度も見てきた。

世の中は思った以上に公平ではない。

だから時々、

「どうして自分ばかり」

と思うこともある。

でも、おそらく多くの人が同じことを思いながら生きているのだろう。

自分のことしか考えていないのは当たり前なのかもしれない

最近思う。

人が自分のことしか考えられないのは、ある意味では仕方のないことなのかもしれない。

人にはそれぞれ事情がある。

余裕がない人もいる。

不安を抱えている人もいる。

生活を守るだけで精一杯の人もいる。

だから他人まで見られない。

本当は悪い人ではない。

ただ余裕がないだけ。

そういう人も多いと思う。

でも、傷つけられる側からすると事情は関係ない。

理由が何であれ痛いものは痛い。

だから、

「相手にも事情がある」

と理解できても、

「だから傷つかない」

とはならない。

そこが人間関係の難しいところだと思う。

人間嫌いの正体

最近になって少しだけ分かってきたことがある。

人間嫌いという感情は、人間への期待を捨てた状態ではないのかもしれない。

本当に期待していなければ、傷つかない。

本当にどうでも良ければ、怒らない。

本当に関心がなければ、失望もしない。

でも実際には傷つく。

腹が立つ。

悲しくなる。

それは心のどこかで、

「分かってほしかった」

「大切に扱ってほしかった」

「誠実であってほしかった」

と思っているからだ。

期待があるから失望する。

信頼したいから傷つく。

人間嫌いの奥には、そんな気持ちが隠れていることもある。

それでも人間の中で生きていく

人間が嫌いだと思う日がある。

距離を置きたくなる日もある。

誰とも関わりたくなくなる日もある。

それは別におかしなことではないと思う。

長く生きていれば、そう思うだけの経験をする。

傷つくこともある。

裏切られることもある。

理不尽な目に遭うこともある。

だから「人間が好きです」と言えない日があってもいい。

ただ不思議なのは、それでも人は完全には人を諦められないことだ。

誰かと話したり。

誰かに共感したり。

誰かの言葉に救われたりする。

結局、人に傷つきながらも、人によって救われる。

矛盾している。

でも人間関係というのは、たぶんそういうものなのだと思う。

今日は人間が嫌いだ。

それは本音だ。

でも、その言葉の奥には、

「もう傷つきたくない」

という気持ちも隠れている気がする。

だから今日は、人間嫌いな自分を否定せずにいたいと思う。

人間が嫌いだと思う日は、自分がそれだけ傷ついてきたことを思い出す日なのかもしれないから。

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