「少し作業しただけ」で、また眠ってしまった
今日は11時頃に一度起きた。
昨日は引っ越しのアルバイトだった。
帰宅後、筋肉痛で何度も目が覚めながら眠り、朝になっても身体の重さがかなり残っていた。
それでも、「少しは動かなきゃな」という感覚があったので、起きて少しだけ作業をした。
コラムを書く。
メモを見る。
考え事を整理する。
でも、しばらくすると明らかに身体の反応がおかしかった。
集中力が続かない。
頭がぼんやりする。
身体の奥に、重たい疲労が残っている感じがする。
そして結局、そのまままた眠ってしまった。
次に起きたのは16時だった。
気づけば、今日はほぼ丸1日を回復に使うことになっていた。
「何もできなかった日」に感じる焦り
こういう日は、少し焦る。
本当はもっと進めたいことがある。
書きたい記事もある。
整理したいこともある。
考えたいこともある。
でも身体が動かない。
昔の自分だったら、こういう日にかなり強い自己嫌悪を感じていたと思う。
「また何もできなかった」
「時間を無駄にした」
「もっと頑張れたはず」
そうやって、自分を責めていた気がする。
特に、自営業や個人制作をしていると、「止まること」に対する不安がかなり強い。
会社員なら、最低限そこにいるだけで時間が進む。
でも個人作業って、自分が止まると、本当に全部止まった感じがする。
だから以前は、疲れていても無理に動こうとしていた。
「頭は動く」が、逆に厄介だった
しかも厄介なのは、こういう日でも頭だけはある程度動いてしまうことだ。
文章は書ける。
AIとも会話できる。
アイデアも出る。
だから、「まだ動ける」と錯覚しやすい。
でも最近は、そのズレをかなり感じるようになった。
思考が動くことと、身体が回復していることは、全然別だった。
頭は前へ進みたがる。
でも身体は、明らかに「今日は回収日だ」と言っている。
以前の自分は、その身体側の声をかなり無視していた。
「まだいける」
「あと少し頑張れる」
で押し切っていた。
でも最近は、その積み重ねが後から大きく返ってくることを、かなり実感するようになった。
集中力が落ちる。
人への反応が荒くなる。
海へ行く気力が消える。
文章の感覚も鈍る。
だから最近は、「今日は回復側の日だな」という感覚を、以前よりちゃんと受け取るようになってきた。
サカイの疲労は、単純な筋肉痛では終わらない
最近かなりはっきりしてきたのだけれど、引っ越しのアルバイトって、筋肉疲労だけでは終わらない。
もちろん身体は疲れる。
でも、それ以上に神経が削られる。
朝早く起きる。
長時間動き続ける。
常に周囲を見ながら判断する。
重い物を持つ。
急ぐ。
人に気を遣う。
しかも、ずっと「止まれない空気」がある。
だから帰宅後、身体だけではなく、神経のほうもかなり消耗している。
最近は、その疲労が翌日にかなり残るようになった。
しかも面白いのは、疲労が「眠気」としてだけ出るわけではないことだ。
何度も起きる。
眠りが浅い。
身体は重いのに、脳だけ少し覚醒している。
だから、「長時間寝た=回復した」にならない。
今日みたいに、途中でまた眠り直すことで、ようやく少し戻ってくる感じがある。
「節約モード」で働くという感覚
今日は18時から回転寿司屋のアルバイトがある。
正直、今の身体状態で行きたくない気持ちも少しある。
でも、生活もある。
だから今日は、
「節約モードで働こう」
と思っている。
この感覚、最近の自分の中では結構大きい。
昔は、出勤したら常に100%で動こうとしていた。
疲れていても全力。
無理してでも合わせる。
でも最近は、
“その日の残量に応じて出力を調整する”
感覚が少しずつ出てきた。
これは単にサボるという話ではない。
むしろ逆で、
“生活全体を長く運用するための調整”
に近い。
今の自分は、
- アルバイト
- AIとの対話
- コラム執筆
- サイト運営
- 将来への準備
みたいなものを全部並行している。
だから、一回ごとに全力を出し切ると、どこかで壊れる。
最近は、その「壊れ方」を少し現実的に理解し始めている。
「回復日」を認めると、少し楽になる
最近、自分の中で少し変わってきたことがある。
それは、
“疲れる前提で生活を設計する”
感覚だ。
以前は、「疲れないように頑張る」方向だった。
でも今は違う。
疲れる。
回復日が必要になる。
午前中が消える日もある。
まず、その現実を認める。
その上で、どう運用するかを考える。
そうすると、不思議と少し楽になる。
「また動けなかった」
ではなく、
「今日は回復日だった」
という見方ができるようになる。
もちろん、理想通りにはいかない。
もっと進めたかったと思う日もある。
でも最近は、
“無理して短く燃える”
より、
“少しずつでも長く続ける”
ほうが大事な気がしている。
回復している日も、ちゃんと生活の一部だった
今日は、ほとんど回復だけで終わった1日だった。
でも最近は、こういう日も「止まっていた日」ではない気がしている。
身体を戻していた。
神経を回収していた。
次に動くための土台を整えていた。
そう考えると、回復もちゃんと生活の一部なんだと思う。
若い頃は、「頑張れること」が強さだと思っていた。
でも最近は、
“ちゃんと回復できること”
のほうが、長く生きるには大事なのかもしれないと感じている。
そして多分、人生って、全力で走っている時間だけでできているわけじゃない。
こういう「少し止まりながら整えている日」も含めて、生活なんだと思う。