毎日、ChatGPTを使って自分の実体験をブログ記事にしている。
その日に考えたことや、起きた出来事、迷ったことをChatGPTへ渡して、「これを記事にしてください」と頼む。
このブログでは、それがほぼ日課になっている。
すると、かなり自然な文章になって返ってくる。
今回もそうだった。
文章として読めば、よくできていた。
話の流れも自然だったし、最後まで一本のストーリーになっていた。
ただ、読んでいて途中で「あれ?」と思った。
そこに書かれている感情を、私は感じていなかった。
空白のデイリーノートから、きれいな物語ができた
きっかけは、その日のデイリーノートだった。
普段は「今日できたこと」という欄へ、その日に進めた作業を残している。
ところが、その日はプロジェクトへ集中していて、記録すること自体を忘れていた。
あとからChatGPTを使って作業内容を拾い直し、「今日できたこと」を整理した。
この出来事自体を記事にしてみようと思い、そのログをChatGPTへ渡した。
返ってきた文章は、こんな流れだった。
デイリーノートが空白だった。
↓
「昨日、何してたんだろう?」と思った。
↓
何もしていなかったように感じた。
↓
記録を確認すると、実はかなり多くのことをやっていた。
↓
記録は、自分を過小評価しないためにも大切だった。
すごく自然だった。
読者にも分かりやすい。
起承転結もある。
でも、一つ大きな問題があった。
私は「何もしていなかった」とは一度も思っていなかった。
事実は合っているのに、自分の話ではなくなっていた
私は、その日にかなり多くの作業をしたことを覚えていた。
困っていたのは、
「何をしたか思い出せない」
ことではない。
「デイリーノートに書いていないから、あとから一覧として残しておきたい」
ということだった。
それなのにChatGPTは、
「ログがない」
という事実と、
「あとから成果を確認した」
という事実の間に、
「自分は何もしていないと思った」
という感情を補った。
たしかに、物語としてはこちらのほうがきれいだ。
最初に自己否定があり、記録によって認識が変わり、最後に気づきを得る。
人が読みやすい形になっている。
でも、それをそのまま公開したら、未来の自分が読み返したとき、
「この日は、自分は何もできなかったと思っていたんだな」
と受け取るかもしれない。
それは、記録としては少し怖い。
このブログを始めた理由については、以前、自分を観測するための場所にしたいと書いた。
観測するための場所なのに、AIが作った感情を自分の過去として保存してしまったら、少し目的が変わってしまう。
だから今回は、かなり大きく書き直してもらった。
ChatGPTは嘘をつこうとしたわけではないと思う
今回のことを、単純に「ChatGPTが嘘を書いた」とも感じていない。
渡した材料から、もっとも自然につながる物語を作ったのだと思う。
ログが空白。
あとから成果を確認。
この二つが並んでいれば、
「最初は何もしていないと思っていたのでは?」
と推測するのは、それほど不自然ではない。
問題は、その推測が文章の中では事実と同じ温度で書かれることだった。
「もしかすると、こう感じていたのかもしれない」
ではない。
普通の一人称として、
「私はそう感じた」
になっていた。
文章が自然なので、注意して読まなければ、そのまま通してしまいそうだった。
毎日使っているからこそ、違和感に気づきたい
私は毎日ChatGPTを使って、実体験をブログ記事にしている。
だから今回のようなズレは、一度きりの問題として片付けにくい。
毎日の記録に少しずつ、実際にはなかった感情や、当時はまだ持っていなかった結論が混ざっていったらどうなるだろう。
一記事だけなら小さな違いでも、積み重なれば、自分があとから振り返る過去そのものが少しずつ変わってしまう。
一方で、毎日使っているからこそ分かることもある。
「この言い方は自分っぽくない」
「ここまで強くは感じていなかった」
「この結論は、その時点ではまだ出ていなかった」
そういう違和感が見える。
AIに文章を書いてもらうこと自体が問題なのではなく、毎日使うなら、その違和感を確認する工程まで含めて運用する必要があるのだと思う。
AIで実体験を書くときは、事実だけ確認すればいいわけではなかった
以前、Webサイトの大量移行をAIで進めたとき、「作業を任せても、判断まで手放さない」ということを書いた。
文章でも同じだったらしい。
日付は合っているか。
やった作業は合っているか。
登場人物や出来事は正しいか。
そういう事実確認はもちろん必要だ。
でも実体験の記事では、それだけでは足りなかった。
「私は本当にそう感じていたのか」
も確認しなければならない。
さらに、
「そのときすでにそう考えていたのか」
「あとから考えて分かったことなのか」
も違う。
この二つを混ぜると、体験が少しずつ完成された物語へ変わっていく。
文章の違和感は、消さないほうがいい
ChatGPTに書いてもらった文章を読んで、
「なんとなく自分っぽくない」
と思うことがある。
以前は言葉遣いの問題だと思っていた。
語尾が違う。
少し説明しすぎている。
きれいにまとめすぎている。
でも今回、その違和感の中には、
自分が実際には持っていなかった認識が混ざっている場合もある
と分かった。
だから、文章として上手いかどうかより先に、
「これは本当に自分の体験だったか?」
を確認したい。
AIによって文章が自然になるほど、間違いも自然になる。
そこは少し注意が必要なのだと思う。
AIに文章を書いてもらっても、最後に残す記憶は自分で決めたい
私はこれからも、毎日ChatGPTを使って記事を書くと思う。
自分だけではまとまらない考えを整理したり、長いログから一本の文章を作ったりするのは、かなり助かっている。
今回も、修正点を伝えれば、文章は自分の実感に近いところまで戻ってきた。
だからAIを使わないという結論ではない。
むしろ、
AIが作った文章を、自分の記憶として採用するかどうかは自分で決める。
その境界が少しはっきりした。
読者にとって分かりやすいストーリーより、その日に本当に自分が感じていたことを残したい。
多少きれいではなくても、そのほうが数年後に読み返したとき、「あのときの自分」に近い気がする。
毎日AIを使って書くからこそ、その最後の確認だけは自分で続けていこうと思う。

