回転寿司の厨房で、自分が壊したことになっていた機械がある。茹で麺の機械だ。
自分では、壊した覚えがなかった。それでも店の中では、自分が壊したと判断されていたらしい。その判断が、自分の知らないところで先に出来上がっていた。
あとから聞いた話で、判断がほどけた

今朝、話が違っていたと分かった。
壊したのは自分ではなかったようだ。朝のシフトの人が、準備のときに壊したらしい。そのことが、店長には伝わっていなかった。だから、見えていないまま、自分が壊したことになっていた。
自分がその場を見ていたわけではない。あとから聞いた話だ。完全に白黒がついた、というより、自分がやったことではなかったらしい、という届き方だった。まだ、少し曖昧なまま受け取っている。
安心したのに、渡す相手がいない

最初に来たのは、安心だった。
やっていないことを、やったことにされていた。その荷が、一度に軽くなった。胸のあたりが、ふっと緩んだ。
それと同時に、やり場のない気持ちが残った。
安心すると、怒る相手がぼやける。朝の人を責めたいわけでもない。準備のときに壊してしまった人にも、何か事情があったのかもしれない。店長に、確認してから判断してほしかった気持ちもある。でも、伝わっていなかったのなら、店長も見えていないものを見ていたわけではない。
じゃあ、この気持ちは誰に渡せばいいのか。
事実が戻っても、疑われていた時間は戻らない。そのあいだに自分の中で起きていたことまで、訂正の一言で回収されるわけではない。「あなたではありませんでした」で終わる話と、自分の中に残る話は、長さが違う。
もし自分が壊していたなら、謝る場所があった。壊していないと分かると、謝る言葉も、怒る言葉も、置き場所を失う。安心はする。その安心が、誰かに渡せる形をしていない。渡す相手がいない感情は、外に出たつもりでも、自分に戻ってくる。
聞いた話が、この先また少し変わる可能性もある。朝の人が壊した、というのも、まだ「らしい」の段階だ。だから今は、誰かを断定して悪く言う段階ではない。それでも、自分が壊したと判断されていたこと自体は、もう自分の中では起きてしまっている。あとから事実が動いても、一度向けられた判断の感触は、すぐにゼロにはならない。
厨房では、判断が一人に戻りやすい

厨房では、担当が分かれやすい。自分の場所のことは、自分で処理する前提で回ることが多い。前に、その構造だと神経が削られる、と書いた。注文が溜まると、フォローが入りにくく、負荷が一人に残る。
回転寿司の厨房で、急かされ続ける消耗については、以前の記事に書いている。
今回は、注文ではなく、機械の故障が同じ戻り方をしていたように思う。誰が触ったかより先に、その場にいた人へ判断が落ちる。忙しいと、事実確認も後回しになる。後回しのあいだに、判断だけが一人の名前へくっついて残る。
見えていないところで結論が先に進む苦しさは、別の仕事でも感じたことがある。努力が足りないように扱われた夜のことは、前に書いた。種類は違う。今日は、壊していないものを壊したことにされていた。ただ、「見えていない」が先に結論になる感じは、どこか似ていた。
誰かと仕事をするとき、理解されない苦しさについては、以前の記事に残している。
見えたあとに、置く場所がなかった

ただし今日は、怒りが前に出る前に、安心が来た。そして安心の横に、置き場のない感じが残った。涙が出そうだった。
安心は、自分の中では本物だ。それと別に、店の側の判断が同じようにほどけたのかは、まだ見ていない。自分の中で「違う」と分かっても、店に残っている見方が同じように変わっているかは、今朝の時点では分からない。
人の気持ちが早く見えてしまうと、店の中の空気を一度に拾ってしまう。安心した自分と、まだ引っかかっている自分と、確認できていなかった店長と、準備のときに壊してしまったらしい人。全部が並んで見えて、どれか一つに気持ちを預けることができない。見えること自体は、いつも損だとは思っていない。今朝は、見えたあとに置く場所がなかった。
この気持ちを、店の誰かにどう渡すのかも、今朝は分からなかった。事実を共有してほしいのか。もう過ぎたこととして、自分の中に置いておくのか。どちらが自分を守るのかは、まだ分かっていない。
やり場がない気持ちを、無理に誰かへの文句へ変えると、また別のしこりになりそうで怖い。変えないままだと、この感じは自分の中に残る。安心したことと、残ってしまったことは、いま同時にある。
朝の人と顔を合わせない時間帯だと、準備で起きたことは、あとからしか届かない。届いたときには、判断のほうだけが先に残っている。悪意がなかったとしても、そのずれの中にいた時間は戻らない。

