朝5時の海へ向かった
今日は朝一でサーフィンへ行った。
朝5時頃から海へ入り、6時半くらいまで波に乗っていた。
最近はなかなか海へ行けていなかったので、久しぶりに「ちゃんとサーフィンした」という感覚があった。
とはいえ、内容としてはそこまで良かったわけではない。
冬の間、ほとんど海へ入れていなかったので、身体がかなり鈍っていた。
パドルも遅い。
筋力も落ちている。
タイミング感覚もズレている。
波に追いつけない。
一本だけ立てそうな波はあったけれど、結局すぐに転んでしまった。
それでも、今日は海へ行けたこと自体が大きかった。
最近の自分は、海へ行くこと自体が少し難しくなっていた。
時間。
疲労。
仕事。
回復。
現実的には、色々な条件が噛み合わないと、なかなか海へ入れない。
だから今日は、
「サーフィンが上手くできた日」
というより、
「ちゃんと海へ行けた日」
だった。
家に帰って、そのまま寝た
海から帰ってきた後、少しだけ作業をした。
でも途中でかなり疲労を感じて、横になった。
そのまま午前中は全部寝ていた。
起きた時には全身が筋肉痛だった。
特に腕や肩まわりがかなり重い。
やっぱりサーフィンって、普段使わない筋肉をかなり使うんだなと思った。
ただ、不思議なのは、今日はそこまでネガティブな感じがしていないことだ。
普通に考えれば、
「午前中を全部寝て過ごした」
とも言える。
でも今日は、
「また一日潰れた」
みたいな感覚があまりない。
むしろ、
「今日は良い疲労だったな」
という感覚のほうが強い。
同じ“回復”でも、かなり違う
最近、自分の中で少しずつ整理できてきたことがある。
それは、
“同じ疲労でも、納得できる疲労と、そうじゃない疲労がある”
ということだ。
例えば最近は、引っ越しのアルバイトの翌日に午前中が潰れることもかなり多い。
全身筋肉痛になる。
眠気も強い。
回復に時間がかかる。
だから「午前中が回復で消える」という現象自体は、実は今日とあまり変わらない。
でも、感覚がかなり違う。
引っ越しのアルバイト後の疲労って、
- 長時間拘束
- 神経疲労
- 人間関係
- 急かされる感覚
- 空気を読む疲れ
みたいなものがかなり混ざっている。
つまり、身体だけじゃなく、神経もかなり削られる。
だから回復していても、
「また削られる前提」
みたいな感覚が残りやすい。
一方で今日の疲労は、
自分が海へ行きたくて行った結果の疲労だ。
朝起きて。
波を見て。
海へ入って。
身体を動かして。
その結果として筋肉痛になっている。
ここには、
「自分で選んだ感覚」
がかなりある。
だから同じ筋肉痛でも、感覚が全然違う。
最近、「何に疲れたいか」を考えるようになった
以前の自分は、
「疲れること自体が悪」
みたいに考えていた時期があった。
でも最近は少し違う。
むしろ、
“どんな理由で疲れているか”
のほうが大事なんじゃないかと思い始めている。
例えば今日みたいに、
- 海へ行った
- 朝日を見た
- 身体を使った
- 波を追いかけた
結果として疲れているなら、どこか納得感がある。
でも最近の生活では、
「回復するために生きている感じ」
が強くなることがあった。
働いて疲れる。
回復する。
また働く。
その繰り返し。
もちろん、生活のためには働かなければいけない。
現実問題として、今は収入も必要だ。
でも最近は、
「どうせ疲れるなら、自分の人生側で疲れたい」
という感覚が少しずつ強くなっている。
今日の午前中って、多分そこがかなり違った。
「成果」より、「存在した時間」
今日のサーフィンは、客観的に見れば上手くいっていない。
一本も乗れていない。
久しぶりすぎて身体も動いていなかった。
でも不思議と、
「行かなきゃよかった」
という感覚はほとんどない。
むしろ、
「今日は良い朝だったな」
という感覚が残っている。
これって、多分、
“成果”
だけではなく、
“その時間が存在したこと”
自体に価値を感じているんだと思う。
最近、自分はずっと、
- 効率
- 収益
- Cash化
- 労働
- 回復
- 将来不安
みたいなものをかなり強く考えている。
それは現実として必要なことだ。
でも、その一方で、
「人生って、それだけで埋め尽くされると苦しくなる」
という感覚もかなりある。
今日の朝の海って、多分、
“自分の人生側の時間”
だった。
だから、波に乗れたかどうか以上に、意味があった気がしている。
本当に欲しいのは、「こういう朝がある生活」
最近、少しずつ分かってきたことがある。
自分が欲しいのは、多分、
「毎日遊んで暮らしたい」
ではない。
むしろ、
“こういう朝が、ちゃんと生活の中に存在している状態”
なんだと思う。
朝起きて海へ行ける。
少し疲れて帰ってくる。
午前中は回復に使う。
でも、その疲労に納得感がある。
最近、自分は、
「どれだけ頑張れるか」
より、
“どんな生活なら自然に続けられるか”
を考えることが増えている。
今日のサーフィンは、その感覚をかなり確認できた時間だった。
多分、自分は、
「疲れない人生」
を求めているわけではない。
そうじゃなくて、
“自分で選んだ疲労が存在する人生”
を求めているんだと思う。
そして今日の午前中は、
久しぶりにその感覚を少し思い出せた時間だった気がしている。