15時間半眠った日に気づいた。「頑張れない」のではなく、“回復が追いついていなかった”だけかもしれない

人生と仕事

深夜0時に寝て、起きたのは翌日の11時だった。

しかも、それで終わりではない。

少し動いたあと、また眠ってしまい、気づけば夕方になっていた。

合計すると、15時間半。

途中で何度も目は覚めているので、「よく眠れた」という感覚とも違う。
起きた瞬間にあったのは、全身の筋肉痛と、身体の芯に残る重さだった。

「こんなに寝るなんて、どこかおかしいんじゃないか」

以前なら、そんなふうに考えていたと思う。

でも最近は、少しだけ見え方が変わってきた。

あの日の睡眠は、“怠け”ではなく、“回収”だったのかもしれない。

人は、身体より先に「思考」で消耗することがある

最近、自分の生活はかなり不規則だ。

Web系の仕事をしながら、AIを使って記事を書き、複数のサイトを更新し、その合間にアルバイトにも行っている。

一見すると、「忙しい人」で終わる話なのかもしれない。

でも、本当に消耗しているのは、作業量そのものではない気がしている。

むしろ厄介なのは、“判断し続けること”だ。

  • どの作業を優先するべきか
  • 何が最も早く収益につながるか
  • 今やっていることは未来につながるのか
  • この疲労は必要な負荷なのか、それとも消耗なのか

頭の中では、常に何かを比較し、選び続けている。

しかも、自営業や個人活動に近い働き方をしていると、「誰かが決めてくれる」が存在しない。

動く方向も、止まるタイミングも、自分で決めなければいけない。

これは自由でもあるけれど、同時にかなり神経を使う。

特に、感受性が強い人ほど、頭の中が“常時稼働”になりやすい気がする。

「疲れている理由」が見えない疲労は、自分でも否定しやすい

厄介なのは、この手の疲労は外から見えにくいことだ。

例えば、引っ越し作業のような体力仕事なら、「疲れて当然」という理解を得やすい。

でも、パソコンに向かって考え込んでいる疲労や、人間関係で神経を削られる疲労は、見えづらい。

さらに、自分自身でも軽視してしまいやすい。

「今日はそんなに動いていない」
「もっと頑張ってる人はいくらでもいる」

そうやって、自分の疲労に“却下”を出してしまう。

でも実際には、人によって削られるポイントは違う。

長時間労働そのものには耐えられても、
人間関係の緊張感で一気に消耗する人もいる。

逆に、人付き合いは平気でも、単調作業の連続で心が摩耗する人もいる。

しかも繊細さというのは、「傷つきやすい」という単純な話ではない。

空気の変化を拾いやすい。
相手の感情を無意識に受信してしまう。
周囲のざわつきを、自分の身体まで通して感じてしまう。

だから、人によっては「普通に働くだけ」で、かなりエネルギーを使っている。

でも、それは外からは見えない。

それでも、その日は“ゼロの日”ではなかった

15時間半眠った日。

正直、身体はかなり重かった。

でも、その日を振り返ると、何もしていなかったわけではない。

洗濯をして、洗い物をして、ノート整理をして、夜はアルバイトにも行った。

さらに、記事も複数本書いた。

以前の自分なら、「15時間も寝た」という事実だけで、その日全体を失敗扱いしていたと思う。

でも最近は、「その状態でも戻ってこられた」という見方をするようになった。

これは、自分の中では結構大きい。

昔は、「崩れたら終わり」という感覚が強かった。

生活リズムが乱れる。
疲労で動けなくなる。
長時間眠る。

そういう状態になると、「もうダメだ」と感じてしまっていた。

でも今は違う。

多少崩れても、また戻ってこられるなら、それは停止ではない。

波がありながらも、前進は続いている。

「理想の自分」を追い続けるほど、現実の自分を見失う

以前の自分は、「普通に安定して働ける人間」になろうとしていた。

朝起きて、昼働いて、夜寝る。

毎日同じリズムで動ける人間にならなければいけないと思っていた。

でも最近は、その方向だけを目指すことに少し違和感を持ち始めている。

もちろん、安定は大事だ。

ただ、“自分の特性を無視した安定”を目指すと、どこかで無理が出る。

むしろ今は、

  • 自分は何で削られるのか
  • どんな働き方なら続くのか
  • 何をしている時に幸福度が上がるのか
  • どの積み上げが未来につながるのか

そういう「構造理解」の方が大事な気がしている。

最近、自分の中で優先順位がかなり整理されてきたのも、その影響かもしれない。

「早く結果につながるもの」
「継続しやすいもの」
「幸福度が上がるもの」

その軸で、やることを選び直している。

これは単なる効率化ではなく、“自分を壊しすぎない設計”に近い。

たくさん眠る日は、「止まった日」ではなく「回復していた日」なのかもしれない

15時間半眠った日。

以前なら、自分を責めて終わっていたと思う。

でも今は少しだけ違う。

身体や脳が、後回しにしていた疲労を回収していた。
そんな見方もできるようになってきた。

もちろん、ずっとこの状態では苦しい。

もっと安定して動けたほうがいい。
もっとラクに生活できたほうがいい。

ただ、無理やり“正常っぽく見せる”ことばかり優先すると、自分が本当に何で削られているのかを見失う。

最近ようやく、「ちゃんと疲れていたんだな」と、自分の状態を認められる瞬間が増えてきた。

そしてそれは、弱くなったというより、以前より少しだけ、自分を雑に扱わなくなってきたということなのかもしれない。

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