先日、用事の帰りに久しぶりに大型ショッピングモールへ立ち寄った。
特に買いたい物があったわけではない。せっかく近くまで来たので、少し歩いて店を見て回り、髪を切り、最後にカフェで休んでから帰ろうと思っただけだった。
館内にはたくさんの店が並び、以前の自分なら、かなり長い時間をかけて見て回ったと思う。雑貨店で面白そうな物を見つけたり、服を眺めたり、予定になかった物まで欲しくなったりしたはずだ。
けれど今回は、少し様子が違った。
面白いとは思う。気になる物もある。でも、「欲しい」にはつながらない。
その変化が、少し不思議だった。
昔は「面白い」と「欲しい」が直結していた
若い頃は、面白い物を見つけるだけで気分が上がった。
役に立つかどうかは、それほど重要ではなかった。珍しい雑貨、変わった本、使い道のよく分からない小物でも、「なんだこれ」と笑えれば、それだけで欲しくなることがあった。
当時の買い物には、実用性とは別の楽しさがあったのだと思う。
店を歩きながら偶然何かを見つける。自分の知らなかった世界に触れる。持ち帰った物を部屋に置いて、少しだけ生活の景色が変わる。
買い物は、物を手に入れる行為であると同時に、新しい自分を試す行為でもあった。
ところが今は、商品を見た瞬間に別の考えが浮かぶ。
「これを買って、いつ使うのだろう」
「置く場所はあるだろうか」
「最初だけ触って、そのまま邪魔になるのではないか」
以前なら購入した後に考えていたことを、今は購入前に考えるようになった。
Amazonで便利になった分、買い物の役割も変わった
生活スタイルの変化も大きい。
今は必要な物の多くを、インターネットですぐに探せる。価格を比較し、レビューを読み、在庫を確認し、そのまま自宅まで届けてもらえる。
以前のように、何軒も店を回って目的の商品を探す必要はほとんどない。
便利になった一方で、買い物から「探索する楽しさ」が少し減ったのかもしれない。
昔のウィンドーショッピングは、欲しい物を探すだけではなかった。自分でも何を探しているのか分からないまま歩き、偶然の出会いを楽しむ時間だった。
今は目的の物があれば検索する。目的がなければ、そもそも買い物へ行かない。
その結果、ショッピングモールの意味も変わった。
物を買う場所というより、歩く場所、店の雰囲気を見る場所、食事をする場所、日常から少し離れる場所になっている。
ワクワクしなくなったのは、感性が鈍ったからではない
この日、昔よく楽しんでいたタイプの雑貨店にも入った。
店内には、相変わらず少し変わった商品や、思わず笑ってしまうような物が並んでいた。それでも、以前ほど強くワクワクしなかった。
一瞬、「年齢とともに感性が鈍ったのだろうか」と思った。
けれど、少し違う気がする。
興味がなくなったわけではない。面白い物を見れば今でも面白いと感じる。ただ、その面白さを自分の部屋まで持ち帰る必要を感じなくなったのだ。
つまり、「興味」と「所有」が分かれた。
以前は、面白いと思った物を所有することで、その楽しさを手元に残そうとしていた。今は、店で眺めて面白いと思えれば、それだけで十分なことが増えた。
これは感性の衰えというより、自分に必要な物と、ただ面白いだけの物を分けられるようになった変化なのだと思う。
物よりも「過ごした時間」が残るようになった
その日は、最後にカフェで飲み物とワッフルを注文した。合計は700円を少し超えた。
今の自分の金銭感覚では、かなり贅沢な金額だった。毎日のようには使えない。
それでも、久しぶりにゆっくり座り、外出の疲れを落ち着かせながら過ごす時間には満足感があった。
物は何も増えていない。でも、少し気分が変わり、「今日はいつもと違う時間を過ごした」という感覚が残った。
最近の自分に合う贅沢は、こちらなのかもしれない。
買った後に管理が必要な物ではなく、その場で味わって終わる食事や休憩。部屋を狭くしない体験。予定や成果とは関係のない時間。
若い頃は、物を増やすことで生活を豊かにしようとしていた。今は、物を増やさずに、過ごし方を少し変えることで生活を豊かにしたいと思う。
変わったのは物欲ではなく、豊かさの基準かもしれない
年齢を重ねると、以前のように何にでも興味を持てなくなったと感じることがある。
けれど、本当に失ったのだろうか。
興味を持つ力がなくなったのではなく、何を自分の生活に入れるかを慎重に選ぶようになっただけかもしれない。
買わなくても面白い。
所有しなくても楽しめる。
何も持ち帰らなくても、よい時間を過ごした記憶は残る。
以前とは違う楽しみ方になったことに、少し寂しさはある。でも、それは感性がなくなった証拠ではなく、豊かさの基準が変わった証拠なのだと思う。
これからは、昔のように何かを欲しがる自分へ戻ろうとするのではなく、今の自分が心地よいと思える楽しみ方を見つけていきたい。