人気メニューの漁師丼を、はじめてゆっくり食べた
今日はアルバイトから帰宅して、少し不思議な気持ちになった。
仕事中、オーダーミスで余った料理をまかないとして持ち帰ることができた。
以前から少し気になっていた「漁師丼」だった。
普段、仕事中は忙しくて店の料理をゆっくり見る余裕もない。
だから、人気メニューと聞いていても、実際にどんな料理なのかをちゃんと味わう機会は意外と少ない。
今日は家に帰って、ゆっくりその漁師丼を食べた。
結論から言うと、感想は「まぁまぁ」だった。
決してまずいわけではない。
ボリュームもかなりあるし、表面だけ見れば豪華だ。
生しらす。
イクラ。
海老。
ぱっと見は「おお、美味しそう」と感じる盛り付けになっている。
食べ進めるほど、少しずつ違和感が出てきた
でも、食べ進めていくうちに、少しずつ違和感が出てきた。
その下の層が、刺身の端材で埋め尽くされていたからだ。
色の悪い血合い部分。
筋が多い部分。
しっぽ側の切り落とし。
もちろん、端材を使うこと自体は悪いことではない。
飲食店をやっていた経験があるので、食材を無駄にしないことの大切さも分かる。
むしろ、本当に美味しく調理されていれば、端材でも十分価値は出せる。
ただ、今回感じたのは、
「これは“端材を美味しく食べさせよう”としている料理ではなく、“豪華に見せながら原価を調整している料理”だな」
という感覚だった。
最初の印象と、食後の満足感がズレていた
最初の印象は良い。
でも、食べ進めるほど満足感が落ちていく。
刺身の量自体はかなり多い。
なのに、不思議と幸福感が積み上がっていかない。
途中から、刺身よりも白米の方が美味しく感じ始めていた。
そして最後の方は、少し「処理」に近い感覚になっていた。
「ああ、この料理を注文したお客さんが、端材部分をよく残している理由が分かるな」
と、妙に納得してしまった。
自分が感じていた“料理への違和感”
以前から、今働いている店の料理には少し違和感があった。
見た目は悪くない。
むしろ、かなり映える。
でも、何か“愛”を感じない。
今日、その理由が少し分かった気がした。
多分、自分が感じている「料理への愛」って、単純に高級食材を使うことではない。
「食べる人が、最後の一口まで気持ちよく食べられるか」
そこまで考えて作られているかどうかなんだと思う。
“食後の気持ち”まで設計されているか
例えば、
- 途中で飽きないか
- 見た目だけで終わっていないか
- 量だけで満足させようとしていないか
- 最後に「また食べたい」と思えるか
そういう“食後の気持ち”まで含めて設計されている料理には、不思議と温度を感じる。
逆に、今日の漁師丼みたいに、
「最初に豪華に見せること」
が強すぎる料理は、途中から少し空虚に感じてしまう。
飲食店をやっていたからこそ見えてしまうもの
もちろん、これは自分が飲食店をやっていた影響もあると思う。
昔、自分でも店をやっていた。
料理を出す側だった時期がある。
だから、どうしても「作る側の思想」が見えてしまう。
この料理は、
「どうやったらお客さんが最後まで満足するか」
を考えて作られたのか。
それとも、
「どうやったら原価を抑えながら豪華に見せられるか」
を優先して作られたのか。
そういう部分を、食べながら感じ取ってしまう。
これは料理だけの話ではないのかもしれない
もしかしたら、これは料理だけの話ではないのかもしれない。
最近、自分はAIやWebサービスのことを色々考えている。
どういう働き方なら続けられるか。
どういうサービスなら、売れても苦しくならないか。
そんなことを毎日のように考えている。
その中で最近強く感じるのは、
「表面だけ良く見せるもの」
って、結局どこかで違和感が出るということだ。
本当に満足感が残るものとは
見栄え。
派手さ。
数字。
ボリューム。
最初のインパクト。
もちろん、それも大事だと思う。
でも、本当に満足感が残るものって、多分そこじゃない。
最後まで気持ちよく使えること。
無理がないこと。
誠実であること。
ちゃんと“人間”を見ていること。
そういう部分が、結局いちばん長く残る。
食べ終わった後に残る感覚
今日の漁師丼は、決してひどい料理ではなかった。
まかないとして食べるなら十分ありがたい。
でも、自分でお金を払って、もう一度食べたいかと言われると、多分頼まないと思う。
それは味だけの問題ではなく、
「食べ終わった後に残る感覚」
の問題なんだろうなと思った。
最近、自分は「何を作るか」より、
「どういう気持ちが残るものを作るか」
の方が大事になってきている気がする。