自分には貧乏神がついているのではないか
ときどき、自分には貧乏神のようなものがついているのではないかと思うことがある。
もちろん、本当にそんな存在がいるのかは分からない。
目に見えるわけでもないし、証明することもできない。自分がそう思い込んでいるだけの可能性も十分にある。
それでも、自分の人生を振り返ると、なぜかお金に恵まれない。
何かを始めても、あと少しというところで収入につながらない。うまくいきそうな話が出てきても、途中で状況が変わったり、自分から手放さざるを得なくなったりする。
もう少し続ければ形になりそうだったのに、という場面で、なぜか流れが途切れる。
そんな出来事が何度も重なると、単なる偶然とは思えなくなってくる。
「また今回も駄目だった」
そう感じるたびに、自分の背後に何か見えない力がいて、お金が入ってくる直前に流れを止めているような気さえしてしまう。
私に関わった人まで貧しくなっている気がする
さらに嫌な感覚がある。
自分に深く関わった人が、何らかの形で経済的に苦しくなっているように見えることだ。
もちろん、その人の人生にはその人の事情がある。
仕事、家族、健康、景気、事業判断。経済状況が変わる理由は無数にあるので、自分との関係だけを原因にすることはできない。
それでも、いくつかの出来事が重なると、
自分が関わったせいで、その人まで貧しくなったのではないか
という考えが頭に浮かぶ。
冷静に考えれば、根拠の薄い考えだと分かる。
しかし、自分自身の収入も思うように増えず、周囲でも経済的に苦しくなった人が目につくと、「自分は貧しさを運んでしまう人間なのではないか」という不安が消えなくなる。
そして、その考えは最終的に、自分自身への絶望へ変わっていく。
努力していないわけではない
一番げんなりするのは、自分なりには努力してきたつもりだからだ。
何もせずにお金がないのであれば、ある意味では話が分かりやすい。
働かなかった。行動しなかった。挑戦しなかった。
それなら、今の結果にも納得できるかもしれない。
でも実際には、長い間仕事を続けてきた。
独立して仕事をした。会社を作った。店を経営した。Webサイトを作り、記事を書き、サービスを考え、何度も新しいことを始めた。
生活を維持するため、複数のアルバイトも掛け持ちしている。
楽をしているとは、自分では思えない。
それなりに努力して、それなりの収入が得られればいい。
大金持ちになりたいわけではない。
贅沢な暮らしがしたいわけでもない。
ただ、毎月の支払いに追われず、身体を酷使する仕事を少し減らし、自分で作ったものからある程度の収入を得たい。
求めているのは、その程度のことだ。
それなのに、その「その程度」がなかなか手に入らない。
だからこそ、「自分には何か根本的な問題があるのではないか」と思ってしまう。
努力が報われないと、人は原因を自分の中に探してしまう
努力しても結果が出ない状態が長く続くと、人は説明を求めるようになる。
市場が悪かった。
タイミングが合わなかった。
商品が弱かった。
営業が足りなかった。
運がなかった。
一つひとつの出来事には、それぞれ現実的な理由があるのだと思う。
しかし、毎回違う理由で失敗が続くと、やがて、
共通しているのは自分だけだ
と感じ始める。
そこで、「自分には貧乏神がついている」という説明が生まれる。
原因が見えないまま苦しみ続けるより、見えない存在のせいだと考えた方が、出来事を一つにまとめやすいからだ。
ただ、その説明は少し危険でもある。
貧乏神が原因なら、自分が何を変えても無駄だということになる。
そして、「どうせまた失敗する」「自分に関わると他人まで不幸になる」という思いが強くなれば、次の行動まで止めてしまう。
もしかすると、自分が恐れているのは貧乏神そのものではない。
これからどれだけ努力しても、また何も残らないのではないか
という未来なのだと思う。
努力が足りないのではなく、収入へ変わる回路が弱かった
これまでを振り返ると、自分は何かを作ることには、かなりの力を使ってきた。
Webサイトを作る。文章を書く。新しい仕組みを考える。サービスを改善する。
価値を作る工程そのものには、比較的長く取り組める。
しかし、作った価値をお金へ変える工程は弱かった。
誰に売るのかを明確にする。
商品を一つに絞る。
価格を決める。
申込みを促す。
売れた商品を繰り返し販売する。
売上が出るまで同じ方向を改善し続ける。
そうした「換金するための工程」に入ると、興味が薄れたり、別のものを作り始めたり、対人負荷を想像して引いてしまったりする。
つまり、努力が存在しなかったわけではない。
努力が収入へ変わる直前で、流れが細くなっていた
と考える方が、実態には近いのかもしれない。
貧乏神に邪魔されているように感じた出来事の中には、毎回似た収益構造の弱点が隠れていた可能性がある。
収入が増えることを、どこかで怖がっていたのかもしれない
さらに考えると、自分は収入が増えることを、心のどこかで警戒していたのかもしれない。
売上が増えれば、仕事も増える。
お客さんが増えれば、対応も増える。
期待されれば、断りにくくなる。
過去には、頑張りすぎた結果、心身が動かなくなった経験もある。
そのため、収入が増える兆しは、喜ばしいことであると同時に、
また以前のように、働きすぎて壊れるのではないか
という恐怖にもつながっていたのだと思う。
頭ではお金が必要だと分かっている。
しかし身体や感情は、「お金が増えると、その分だけ自由がなくなる」と覚えている。
そう考えると、「ここ一番でチャンスを逃している」という感覚も、単なる不運だけではない。
収入の増加と、負担の増加が同じ仕組みになっていたため、自分を守るために無意識のブレーキが働いていた可能性もある。
「自分は貧しさを運ぶ」という結論を、事実にしない
自分に貧乏神がついているのかどうかは分からない。
ただ、現時点で確かなのは、努力が思うような結果へ結びつかず、深く失望しているということだ。
その苦しさまで「気のせい」と否定する必要はない。
実際に、長く努力してきた。
そして、その努力に見合う経済的な安心を、まだ得られていない。
だから、げんなりするのは当然だと思う。
それでも、
自分は裕福になれない
自分に関わる人は貧しくなる
何をしても結果には結びつかない
という結論まで、今すぐ事実にする必要はない。
それは、長く報われなかった経験から生まれた仮説であって、自分の未来を証明するものではないからだ。
必要なのは、さらに努力することではない
今の自分に必要なのは、今まで以上に頑張ることではないのだと思う。
すでに、かなり努力している。
必要なのは、その努力をどこでお金へ変えるのかを明確にすることだ。
新しいものを作り続ける前に、今あるものの中から、最も収入へ近いものを一つ選ぶ。
商品を決める。
誰のための商品なのかを絞る。
申込みまでの流れを整える。
そして、売れるかどうかを確認できるところまで、同じ対象に集中する。
これは派手な方法ではない。
それでも、「何かを作ったが、また収入にならなかった」という繰り返しを止めるには、必要な工程なのだと思う。
貧乏神を追い払う方法は分からない。
でも、努力が消えてしまう場所を一つずつ塞ぐことはできる。
自分が本当に求めているのは、特別な幸運ではない。
それなりに努力したことが、それなりの結果として返ってくることだ。
今はまだ、その当たり前が遠く感じる。
それでも、自分自身を貧しさの原因だと決めつけず、努力と収入の間で切れている回路を探すことならできる。
少なくとも、「自分は呪われている」という絶望よりは、その方が未来に手を伸ばせる気がしている。